夢まどか
幼い頃、夜中に目覚めると、目の前にさまざまな色をした小さな気泡のようなものが不規則に動いているのよく見たものだ。寝ぼけていたのか、夢だったのかわからない。ただその色とりどりの丸いものがふわふわ動く風景は、幼少期への思い出、あるいは、夢の世界の象徴であるかのように繰り返し、私の絵のなかにも登場する。
私は夢の絵を描く。夢は、心の深い部分につながる思い出の海から生まれてくるように思うから。夢は、その海の底で、時を越えて万物の生命につながっているような気がする。子供時代の思い出は、親の、またその親の世代への記憶へとさかのぼる。そして、自分の子供への慈しみとあらゆる感情の流れは、新しい生命、次世代へと繋がっていく。
「まどか」とは、大和ことばで丸いという意味だ。満たされた幸せ、円満、調和という意味合いを含んでいる。私は、娘が生を宿したとき、この子に、広くて安らいだ心を持った太陽のような、あるいは、優しさと慈愛に満ちた月のような人になって欲しいと願ってこの名前をつけた。
私の母と私の関係は、必ずしも平和な愛で満ちあふれていたわけではない。母は、どちらかというと愛し方が下手な人だったかもしれない。母もあるいは、その母の愛を心から必要としていた人かもしれない。
職を持った、独立した女になりたかった母だが、ひとりで生きていくすべも知らないまま結婚し、何時しかそんな夢も忘れてしまった。娘の私には、仕事のできる自立した女性になれといつも語った。それは、母が私にくれた確かな愛だったかもしれない。しかしながら、いつも厳しく、ときに激しく私を叱る、母の逆説的な愛は、子供時代の私には難しすぎた。叱られ続けて育った私は、自分自身に絶対の自信をもてないまま、どこかに不安をかかえながら大人になった。
自立して一人で暮らしていくうちに、そんな子供時代のことなど長らく忘れていたけれど、
年をとってから子供を儲け、その子がものごころつき始めた頃から、自身が幼かった頃の母をよく思い出すようになった。そして最近、だんだん母に似てきた自分に気づく。
自分の子供には、太陽のように温かく、もっと分かりやすい愛を与えたいと思った。まどかには、自分と違う育ち方をして欲しいと願った。そうありたいと願いつつも、ときどき、ちょっとしたことで我が子をきつく叱りつけてしまったときなど、後悔とともに、母の幻影、そして母に対する複雑な感情が蘇る。
眠りについたまどかを見ると、やはりこの子を産んでよかったと思う。母親になれたことを幸せに思う。無垢な眠り顔を見ていると、どんなことも癒される気がする。まどかの安らかな寝顔は、ほのかな希望へと私をいざなう。何かにつまずくことがあっても、次の朝になれば、また新しい一日が始まり、いつでも、どんなことでも、新しい気持ちでやり直すことができるような気がする。
まどかへの限りない深い愛を実感するとき、見失いがちな母の愛も、また見つけることができるような気がする。母の愛を思い出すとき、私もまた自分自身を信じることができる。私はまどかの安らかな眠りと、その夢の絵を描く。まどかの健やかな成長を祈って、記憶の海へと愛をささぐ。
吉川文代 2009年2月